宮内

江戸時代は吉備津神社の門前町で遊興地として賑わった

宮内をうろうろしていると生き字引のような方に
いっぱい話をきくことができた
鳥居の辺りから左側が江戸時代には
600人(本には300人)の飯盛り女を
抱える歓楽地だったそうだ.赤穂の
大石蔵之介が松山城の明け渡しの時
1500人連れて泊まったという、
よく泊まれたもんだ・・・・
今は田んぼだがこの辺りに芝居小屋があった
宮内騒動の発祥地
相撲取りが小屋の番人、小天狗という子分に
3人切り殺された、そのため鍋島藩の殿様の
行列が板倉へ入れづ足止めされた。怒って首を
要求したが岡田屋熊治郎が出て行き見事解決
手前は大親分の岡田屋熊治郎のお墓
嘉永八年正月八日ということはペリーとの
日米和親条約が1854年だからその翌年に
亡くなっている。幕末前頃に生きた人・・・・
戒名には院居士がついている・・・・・
岡田屋熊治郎が寄付した常夜灯のうちの一つ
ちゃんと名前が入っていた
昔は点灯夫が毎夜、灯を入れていたという
天保四年建立の、「左こんぴら道」の道標がある
この先に花町があったけれど今は外れは田んぼ